橋のない川の風景

橋のない川の風景タイトル画像

Section-1

平成4年に群馬県桐生市から埼玉県行田市へ引っ越してきました。この町に来て同和問題について取り組んでいる土地であることを知りました。私の故郷も同和地区というものがありましたが、ここにくるまでは同和問題についてはよくわかりませんでした。行田市は「基本的人権を宣言」していますように、同和問題に深い関わり合いがあるようです。

市の会報にもかならず同和に関する文体が載っていましたので、行田市と同和問題の関係を調べて見ようと思いたちました。それには同和問題とは何なのかを知らなければなりません。私は、大河小説「橋のない川」が同和問題について書かれていることを知り読んでみました。『橋のない川』は、奈良県生駒地方の農村を舞台に書かれています。


明治から大正時代にかけての時代背景を通し、日本の差別( 被差別部落)社会を痛切に説き明かしています。私が暮らしている土地は、田園地帯で雑木林もあり、野鳥も多く生息し、まだ自然が残っていてとても凄しやすい場所です。私は、この「橋のない川」を読んでいくうちに、この土地と生駒の風景がとても似ているように思えてなりませんでした。

大和政権の誕生により、ながすね彦を中心とした生駒(大和)の住人達は神武天皇軍との戦いで敗北し、その土地を奪われてしまいました。そこから生駒の差別が始まったのではないかと考えました。蝦夷(えみし)とは当時の昔からその土地に住んでいた人達です。戦いに破れた村人達はその政権化による権力者の隷属者になっていったのです。そして現代もその差別が歴然と残っているのです。 民族間の戦争によって勝者が敗者を隷属していくことは歴史を通じてわかります。それが時代を経ても隷属されている場合、その社会は人間の本来の姿とかけ離れているのではないでしょうか。

Section-2

人間が人間を差別をすることはいけないということはだれもが知っています。しかし、人間の心というものは自分の幸福感というものに対し自分 と他人を比較してしまいます。人間の個々の能力差とも関係はしてきますが、同和問題はこれとはまったく違うのです。

住んでいる場所や職業などによって差別されてしまうことはゆるされるはずがありません。小説「橋のない川」の主人公、孝二は小作農家に生まれ、大人になってから祖母と母とで小作として米麦を作りながら親戚の草履制作会社に職人として生活を送ります。私も主人公の孝二と同じように履物の製造に関わっています。私が幼い頃、祖父母と両親それに兄二人と私の7人家族で、履物の製造を生業にしていました。

履物(スリッパ) の製造を始めたのは、私が3才頃から始めたようで、以前は織物に使う撚り糸を生業にしながら農家の婦人が農作業で使うボロ帯も作っていました。木織機・糸紬機や糸を染める槽があったことを覚えています。当時、桐生は織物が盛んでしたので織機の音がそこらじゅうに響わたっていました。織物会社を経営している家はお大臣様で、同級生のなかにもお大臣様の子がいました。その家に遊びに行った時には、自分の生活とかけ離れていました。


当時は、自家用車を持っている家などはなく、その家には立派な車が置いてあったのです。その織物も洋風化の波や政府による日米繊維輸出規制により衰退していくことになり、私の家のボロ帯も必然と売れなくなってしまいました。そこで父は、これから洋風の家になっていくからスリッパが売れると、どこからか聞きつけ、ボロ帯の仕事からスリッパの製造を始めることになったのです。

そして私の両親は、スリッパの製造を習うために、私が今住んでいる行田まで足を運んだそうです。昭和30年代、高度経済成長の最中、スリッパも洋風化の家が建ちはじめるようになり飛ぶように売れていっ た時代です。私は学校から帰るとそのスリッパの仕事を兄達と一緒に手伝っていました。

Section-3

私の祖母に聞かされたことがあるのですが、祖母が子供のころ家が貧しく学校に通えない状況にあり、近所の赤ん坊を背負いながら 学校の教室で授業をしているのを窓から眺めていたそうです。ある小学生が祖母の前で土に文字を書いて「この字をなんて読むかわかるか・・」と言われたそうです。祖母は読めるわけもなく悔しい思いをしたと言っていました。

その祖母は毎日字を覚えていき書くことはできませんでしたが、読むことはできるようになりいつも新聞を読んでいました。祖母の祖父はかつて会津藩の下級武士だったようで戊申戦争で薩長軍に破れてしまい明治では落ちぶれてしまったようなのです。

「橋のない川」の年代は祖母が生活を送った同じ年代でありその明治から大正時代の歴史背景と祖母の生活を照らしてみることができました。この土地に住んでいる人達も「橋のない川」のようなできごとがあったのだろうかと読みつづけていきました。


お互い男女が好きあって結婚したくても差別によってかなわない現状が今も横たわっています。なにも罪もない人間が、世間の誤った知識により引き裂かれていくことはとても悲しくそして怒りとなってきます。 人間は常に幸福を求めています。その幸福とはいったい何を目安にしているのでしょうか。

人間 は他人と比較して幸福感を味わう生き物にすぎないのでしょうか。私達が生きている現代社会も 差別意識がいまもはびこっています。女性差別、老人差別、障がい者差別、人種差別など、それはみえない差別として生きています。

Section-4

人間は平等であることを私達は認識しなければなりません。同和問題(被差別部落)の歴史については「封建制社会の長吏と非人」という説明文を掲載しています。また、宗教においても墓碑の戒名が差別用語で書かれている事が確認されています。

埼玉県は曹洞宗の寺が多くあり、この土地にもお寺の墓地にそのような墓碑があるようです。これではあの世でも差別されているようで宗教の本来の立場が損なわれているのではないでしょうか。幕藩体制の下で仏教の各宗派が保護され身分制度の確率で被差別部落の人達は非人として取り扱われていたのす。私の実家も曹洞宗の檀家でしたので、和尚さんにその出来事を聞いたことがあり、やはりそのような事があったようです。和尚さんも仏の道にそむいていたと言っていました。


同和の人達が住んでいる場所はその地域の一定の場所に住んでいました。昔の結婚というのは、家と家の繋がりを意味しており本人同士が好きで結婚ができるような時代ではありませんでした。戦国時代の政略結婚と同じように、一般民衆も同じ政略結婚だったのです。

そうすると同和の人達はその一定の地域で住んでいたわけですからその家と家の結婚となります。そうするとどういう結果になるか、近親結婚により昔から延々と同じ繰り返しをしていくと、同じ血が交わりその生まれてくる子供がどうなるのかということになります。

Section-5

私はこの土地にきて語弊があるかもしれませんが、他の土地の人と違う印象を受けました。そのことをパソコン通信の歴史の会議室で尋ねたところやはり近親結婚により障害を受ける子供ができてしまうとの返答があり、私はその事がとてもショックでした。人間の誤った知識と封建社会の身分制度によってこうも同和の人達を苦しめてきたのかと唖然としました。

まだ同和問題は解決されたとはいえません。まだ依然として偏見を抱いている人達がいます。人間は全て同じであり平等であることをわかって頂たいと思い橋のない川の風景と題してページに載せました。もしご意見やご感想がありましたらお 知らせ下さい。このページは自分自信のルーツを探りながら作成していきますので、終のないページになっていきます。

過去の歴史を踏まえ自分なりに模索していきますのでよろしく便宜賜わりますようお願いします。まだ、同和問題には不勉強ですので詳しい方がおりましたら教えて頂ければ幸いと思っています。

2004年記述。2019年7月更新しました。

許可のない無断転載を禁止します。