橋のない川の参考文献
水平社宣言
1871年(明治4年)明治維新政府は近世社会の最低身分とされた賎民の身分、 職業とも平民同様とするといういわゆる解放令を発布し、法律・制度の上で は差別はなくなったはずでしたが、具体的な施策はほとんどとられず、現実 には依然として差別はなくなりませんでした。 そのため、部落差別の解消 を目指す様々な思想が生まれ、運動が起きました。特に大正中期の米騒動を契機として、被差別部落の人びと自らが部落差別をな くすために立ち上がったのが1922年(大正11年)の「全国水平社」創立大会 であり、ここで採択されたのが「水平社宣言」です。この宣言は「人の世に 熱あれ、人間に 光あれ」とうたい、日本における最初の人権宣言とも言われ ています。
解放令
1871年(明治4年)明治維新政府は、近世社会の最低身分とされた賤民の身分 ・職業とも平民同様とするという内容の太政官布告を出しました。 このい わゆる「解放令」により法律・制度の上では差別はなくなったはずで すが、部落 差別をなくすための施策を明治政府が何一つとらなかったため、 現実には依然として厳しい差別が残り、真の意味の解放とはなりませんでした。
壬申戸籍
1871年(明治4年)、太政官布告でいわゆる「解放令」をだしました。これによ り賎民身分は、法律・制度のうえではなくなりました。しかし、それは単に蔑称 を廃止し、身分と職業が平民なみにあつかわれることを宣言したにとどまるもので、 被差別部落の人々が実質的に差別と貧困から解放される政策を伴ったもの ではなかったです。1872年(明治5年)わが国で最初の近代的な戸籍といわれる「壬申戸籍」がつくら れました。この戸籍には、旧身分や職業、壇那寺、犯罪歴や病歴などのほか、 家柄を示す族称欄が設けられ、中には「新平民」などとかかれているものもありました。 戸籍法では、従前戸籍の公開が原則とされていたので、この「壬申戸籍」 は1968年 (昭和43年)包装封印されて厳重に保管されるまで、他人の戸籍簿を閲覧したり、 戸籍謄(抄)本を取るなど、結婚や就職の際の身元調査に悪用 されました。
身分差別の歴史
奈良時代の奴隷身分「五色の賎」
縄文時代や弥生時代には、制度としての身分差別は検証されていません。しかし、 「古事記」や「日本書紀」にはケガレにまつわる話が出てくるそうで、排泄物や死体 に対する一般的なケガレ観があったことがうかがえます。 奈良時代になると、古代 中国の随や唐から律令制が伝わり、日本も支配の道具として刑罰や行政令を整えます。 その中で、「陵戸・官戸・官奴ヒ・家人・私奴ヒ」(ヒ は女偏に卑と書く漢字)とい う、いわゆる「五色の賎」の奴隷身分がつくられ、売買もされました。しかしこれらは、 都が京都に移り、平安時代に入ると次第に姿を消したのです。
「非人」の登場
平安時代になると、「非人」が登場してきます。「非人」は、寺社の清掃や警備にあ たり、また処刑にも従事しています。特に京都では、これらの歴史的な資料がたくさん残 っているようです。「非人」がどうして定められたかは、何らかの理由で没落 した者が農 村や都市部からはじき出されて形成されたという説が主流のようです。さらに、身体障害者 やハンセン病者らも「非人」に組み込まれました。このあたりは、 劇画の「カムイ伝」に よく登場しています。
仏教および陰陽道によるケガレ観
その原因は、6世紀に朝鮮半島の百済から伝来された仏教によるところが非常に大きい のです。仏教による「殺生禁止」の思想と、これも古代中国から伝わった陰陽道(オンミョウドウ)という呪術の「禁忌・触穢」思想とあいまって、ケガレ観が強化されたのです。その結果、日常的に「ケガレ」に接している人を差別するようになったと言われます。日常的に「ケガレ」に接している人とは、人間や家畜等の死体に接 している人、出血・出産する人のことで、死に関しては「黒不浄」、血に関しては「赤不浄」とよんで、忌避・差別したのです。このように仏教は、差別を生み出し、助長・拡大する大きな役割を持ち、民衆の間に広まっていきました。 この影響は現在も続き、その顕著なものとして差別戒名「えた寺」ばかりをまとめた「部落組」という末寺組織として、つい最近まで残っていました。しかし、宗教界は部落解放同盟の指摘によってこれを悔い改め、 差別の撤廃につとめています。陰陽道については「大安・仏滅」等の六曜として現在も根強く残り、迷信など根拠のないいわれの一つとして、差別意識を支える土壌としての役割があります。
封建社会の長吏と非人
新井直樹、1993年群馬部落研東毛地区近世史学習会・池田氏より教示文献内容より
長吏とは穢多身分のものを指すが、これは江戸浅草の弾左衛門支配地域での呼称でこれら身分の人たちが長吏と呼ばれることを主張した経緯があります。死んだ牛は百姓の手を離れて長吏のものになりました。これは、当時の長吏・半右衛門が「弾左衛門が支配している関東その外の場所では死んだ牛馬が出たときには長吏の権利である」と明瞭にいっています。これを斃牛馬取得権といいます。この斃牛馬取得権というのは、戦国時代に戦国大名らが鎧や鞍などの武器としての皮革調達のために、長吏に 皮の上納を命じたことに始まるといわれています。もっとも、それ以前から長吏といわれた人たちが、死んだ牛馬の皮を取得していたからではありますが、それを戦国大名が組織的に長吏を「役目」として利用したのです。その替わり、長吏は大名から大事に保護されます。小田原の北条氏の発行した史料などを見ますと「徳政」をしたとあります。 その内容については明らかではありませんが、納入する皮の値段を高く買ってやるとか、年貢を負けてやるとか、とにかく皮の確保のための優遇処置をしたとあります。足利の長吏・半右衛門と館林の長吏半左衛門は、戦国時代の旧主であった長尾但馬守顕長から大事にされた旧恩を忘れず、江戸時代の後期になっても、当時古河藩主土井大炊頭の家来になっていた顕長の子孫の長尾氏のところに、毎年正月の挨拶のためはるばる連れ立って出向いたことが足利半右衛門家の史料にあります。
この原皮確保のために、百姓らは牛や馬が死ねばその所有権は消滅し、これを捨場に出すことが義務づけられました。そして、この斃牛馬を無償で取得する独占的な権利を長吏に保証したことにあります。このように戦国時代からの役目から生じた一種の特権が、その後も引き続き江戸時代の全期を通じて幕府によって公認されていたのであります。そして、この斃牛馬取得権は、この慣習法によって受け継がれた長吏の権利ですが、後には一種の「株」の ようなものと考えられ、長吏の間で質に入れたりすることができました。ところで、従来の部落史研究書では長吏が皮を取得することを斃牛馬処理権(へいぎゅうばしょりけん)と呼んでいます。しかし、この「処理」という言葉から受ける印象は、いかにも長吏が斃牛馬を解体したかのように思われがちです 。関東では百姓が斃牛馬を捨場に捨て、非人がこれを解体し、長吏がこれを取得するというのが実態なのです。 群馬部落研の池田氏などはこの点に着目し早くからこの斃牛馬処理権を斃牛馬取得権(へいぎゅうばしゅとくけん)に改めるべきであると主張しています。 この点でも関西と関東では違いがあります。
江戸の弾左衛門役所機構について
弾左衛門役所は江戸浅草の新町にあったところから、普通新町役所と称し、これは弾左衛門が幕府機構の一部署として任命されることになっているため、訴状などは支配下の長吏・非人はいうまでもなく、たとえ百姓・町人でも「新町御役所様」または「浅草御役所様」と宛名しない限り、これを受理しなかったといわれています。 この「新町」という地名は「しんちょう」と呼ばれています。その支配範囲は、関東全域と伊豆一国・三河国信楽郡の一村・甲斐国都留郡・駿河国駿東郡・陸奥国白川郡棚倉町までといわれています。但し、日光神領・水戸藩・喜連川藩は除かれました。
寛政12年(西暦1800年)に、弾左衛門が町奉行所に提出した書上によると、江戸府内での長吏(手代・ 書役1役人1平の者)232軒、非人(非人頭・組頭・小屋頭・小屋主・小屋者)734軒、猿飼15軒。 地方では長吏(小頭・小組頭・組下ー場主 ・水呑)5,432軒、非人(小屋頭・下小屋主・抱)1,261軒、 猿飼46軒ありました(三好伊平次「同和問題の歴史的研究」) これを1軒5人としますとしめて7,720軒ですから約4万人程度となります。 役目は、主に幕府の皮御用・仕置役・浮浪者の取締りなどで、役所自体は地方の小頭への通達や町奉行所からの犯人の人相書など、また地方の長吏・非人などの裁判・ 調停・ 一般百姓・町人など他身分紛争に、主に長吏・非人側に立って裁判訴訟の指揮を採りました。
非人などについて
非人頭浅草の車善七の下には乞胸頭・仁太夫がおりますが、この乞胸とは、身分は町人でありましたが、稼ぎをする時だけ非人頭・浅草の車善七の支配を受けました。地方では、非人小屋頭の紹介で長吏小頭の許可を受けて、その縄張りで稼がして貰いました。乞胸の語源は、乞胸頭仁太夫の家伝によりますと「家々の門に立ち施しを乞い候儀、先方の胸中の志を乞い候と申す意にて、乞胸と唱え候趣と申し伝え候」とあります 。また、乞胸は「合棟」の意で、合棟長屋に住んでいたというところから出たと言う説が妥当であろうといわれています。稼ぎには綾取り、猿若、江戸万歳、辻放下、操り、浄瑠璃、説教、物真似、 仕形能、物誌、講釈、辻勧進などがあります。一般的に非人というのは人に非ずと書き、浮浪者・乞食と思いがちですが、そうではなく幕府によって「身分の者」として公認された者のことです。したがって、人別帳といって今日の戸籍簿のような幕府に提出する書類にも記載され、一定の保護を受けている者なのです。
身分の者というのは、今日でいえば海外旅行などに行くときに、パスポートを受ける資格のある者とでもいえるかと思います。 また、非人のことを番太(ばんた)ともいいます。長吏によって各村々に派遣され、長吏の命令を受けて捨場の見回り・死牛馬の解体などの役と村方に入ってくる浮浪者ー野非人の排除や犯罪者の探索・逮捕・仕置などの任務についておりました。野非人というのは浮浪者のことで、彼らには戸籍はありません。しかし、野非人といえども生きるためにはどんなことでもします。ことに幕府は、この野非人の対策に頭を痛めます。これらを取り締まっていたのが、長吏の手足となって働いた非人なのです。小屋頭といって、一 般非人身分のもの、これを抱え非人と呼んでいますが、このものたちよりも一格上の頭分の者だったのです。
長吏と非人の関係
小屋頭を含む非人身分のものが、長吏の支配下にあったというというのは何故かといいますと、 さきほどは長吏の斃牛馬取得権についてふれました。これとは別に長吏にはもう一つの権利があったのです。 これを勧進権といいます。旦那場(縄張り)村内百姓各戸からの夏麦・秋籾の買いうけ、吉凶 (正月・五節句・婚礼・葬式など)及び月並み(朔・望日など)の呪術的勧進廻りによる百姓各戸からの米麦銭の貰い受け(布施・祝儀)、野辺へ出し候物の取得、祭礼の際の場銭、市役銭などの徴収などです。この勧進の権利の一部を非人に譲渡し、これによって非人は長吏の縄張り内で生活ができたのです。 この長吏と非人の関係つまり、長吏によって非人が支配されていたということは、弾左衛門支配地の特長でして、関西ではこのような関係はありません 。非人は、死牛馬の捨場の見回り・場主への通報・ 死牛馬の解体・運搬、そしてその詳細を記帳などすることを義務付けられました。
これは非人の最も大事な役目で、これを場役といい、また非人の表役ともいわれました。そして、非人はこの役目を果たすことによって、縄張り内の村々で生活することをできたのです。とくに、この日の場主は誰であるかを確かめて、その日の場物(死牛馬)を的確に 場主に通報し届けるということは、職場日割帳を読んで理解しないかぎり納得した行動はできないし、まして、小頭に提出する死牛馬出方帳面への記入などはできるものではないと思います。このように見てきますと、非人といっても結構文字の読み書きができたことがわかります。現に佐野地方に残っている江戸時代の史料からは、明らかに非人身分のものが自筆したと見られるものが多数出てまいります。
職場
次に、職場日割帳と、場主について述べてみたいと思います。 職場日割帳といいますのは、弾左衛門が代替りーつまり、新しい弾左衛門(役名)に替わるとき、関東各地の長吏小頭が職場絵図面と一緒に弾左衛門役所に提出した書類のことです。これは1ヶ月を30日とし、1日から5日までは誰兵衛、6日から10日までは誰というように日毎に縄張り村の死牛馬取得などの権利を書き留めた、いわば公正証書のようなものです。 この書類に記載された人を場主といい、所持する日数を場日といっています。そして、場主はこの権利によって非人を公的にも私的にも監督使役する権利をもっていたのです。このような権利をもった長吏を場主といい、史料などでは1軒前の長吏ともいいました 。百姓でいえば本百姓と水呑み百姓のうちの本百姓の部類に当たります。また、弾左衛門支配下の長吏たちは、弾左衛門役所に年貢銀を納めることになっていました。この年貢銭のことを職場年貢銀といい、古くはお絆綱銭といいましたが、この外に軒毎に納める家別年貢銀があり、非人は小屋役銀を納めていました。これを三役銀といいます。
上納する職場年貢銀の算定は非常に厄介な仕組みになっていますが、ごく簡単にいえば1年に場日1日あたり銀0.5匁(当時の貫文に直して約五十六文)を、小頭が取り纏めて納めていたようです。現在史料的に明らかにされているのは佐野犬伏町の小頭太郎兵衛の縄張りですが、ここは194日場で職場年貢銀九七匁を納めたとあります。天保13年当時、新田郡牛沢村で白米一升百文だったと太田市牛沢の関口さん宅の史料に見えています。その外に、家別役銀といって1軒につき1年に銀二匁五分を小頭を通じて弾左衛門役所に納めていました。佐野の場合、小頭太郎兵衛は105軒の長吏を支配していましたが、先祖が弾左衛門のところに娘を嫁に差出したというわけでもありましょうか、増減に拘らず49軒分の銀百二十二匁五分しか上納しませんでした。また、非人の小屋頭は1人銀四匁五分、下小屋の者は1人銀一匁五分づつ納めていました。
長吏の実態
多くの長吏の実態は、零細であれなんであれ、その殆どは土地を所有していた百姓であります。 佐野地方の長吏の持っていた田畑は、これまでの部落の説明書のような零細で痩せた等級の低い田畑ではありません。例えば、田の場合を見ますと、全部で一五町六反余のうち、実に上田と中田が十二町二反歩もあることが判ります。また、畑にしましても下畑以下の反歩は、全体の二十町三反余の五%しかありません。先日、足利市の郷土史研究者の小野先生からの連絡では、 足利の部落でも上田・中田を持っている人が多いとのことでした。ですから、一般の部落関係の解説書などに長吏は等級の低い田畑しか持つことができなかったと書いているようですが、ここ東毛地方に限っていえば、史料的には明らかに間違いであります。 そして、何よりも長吏たちは勤勉であることです。佐野地方の田合計十五町六反余のうち、百姓から質地として買い取った田は四町七反余ほどもあり、実に田の三割に達していることも特徴的なことであります。
また、長吏たちの生業として草展ー竹皮草履や藁草履・草畦などの生産・販売を見過ごすわけにはまいりません。特に竹皮草履の製造・販売は長吏の特権専売でした。上州山田郡丸山村(現太田市丸山) のある名主家の史料によりますと、明治3年の記録ですが、当時35軒の長吏たちが年に三百五十両もの収入があったと岩鼻県庁に報告しています。当時の侍でも一番下の給料は、一年に三両一人扶持でした。 俗にこれをサンピンといって馬鹿にする言葉となっていましたが、このサンピン侍から見れば、年に十両という収入が如何にたいへんな金額であったかが判ります。 その点、死牛馬の皮取りについては、場主の半分は一年に一枚も収穫がありませんでした。ですから、一般にこれらの事情を知らない人たちが、長吏は死んだ牛馬の皮を剥いで生活していたなどと、事実に基づかない考えや発言をしていることは大変な間違いであります。県内では、水戸・結城・利根などで近世社会の身分制の実態解明がすすめられています。
私が読んだ書籍
橋のない川(住井すゑ)
部落解放に立ち向かう人達とその差別の実体を織りまぜながら奈良県生駒地方の農村を舞台に繰り広がれる物語りです。
破戒(島崎藤村)
部落出身者である教師、乙松が部落出身をひた隠しにし、その苦悩を通じ当時の部落差別社会を世間にしらしめるものです。
被差別部落一千年史(高橋貞樹)
部落差別を過去の歴史を踏まえながら解析し、その過った知識を取り除く事が書き著わされています。
被差別部落の歴史(原田伴彦)
差別社会の起こりを懇切丁寧に書き著わされ、何のために差別社会を築いてきたのかが良くわかります。
2004年記述。2019年7月更新しました。
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